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自分が生まれてからの、総理大臣と現代史を振り返ってみるー4(昭和51年~昭和53年 福田赳夫内閣)

 

三木武夫さんに代わって昭和51年に第67代総理大臣になられたのは、福田赳夫さんです。(自分は12歳時)

福田赳夫さんは「第一高校→東京帝国大学→大蔵省」という、エリートコースを歩んできました。

政界入り後は岸信介さん、また弟の佐藤栄作さんに気に入られ、佐藤内閣では大蔵大臣、党幹事長、外務大臣と厚遇されました。

このころよりポスト佐藤を巡って田中角栄さんとの熾烈な闘争(角福戦争が始まっています。

結局田中角栄さん、三木武夫さんに先を越され、71歳にしてようやく総理のイスにたどり着きました。

 

昭和52年(自分は13歳時)にはダッカ日航機ハイジャック事件が起きています。

日本赤軍が起こしたハイジャック事件です。

福田さんは「人命は地球より重い」とし、犯人側の囚人引き渡しと身代金の支払いを受け入れ、テロリストの脅迫に屈したと批判を浴びることとなりました。

 

またこの年は巨人軍の王貞治選手が、756号本塁打世界新記録を樹立されています。

 

昭和53年(自分は14歳時)には新東京国際空港(現・成田国際空港)が開港しています。

この空港を巡っては、政府、近隣住民に加えて、左翼の各勢力が合流し、テロ事件や反対運動の衝突、武装闘争等の種々の社会問題が起きていました。

成田空港管制塔占拠事件等を乗り越え、なんとか開港にこぎつけています。

 

同年「日米平和友好条約」に調印しています。

経済は回復傾向となり、外交面でも着実に実績をあげることで、内閣支持率は徐々に持ち直しました。

 

福田総理は金権政治からの脱却も目指しており、党員、党友投票による自民党総裁予備選挙を導入しました。

任期2年後の総裁選挙再選に立候補、再選は確実視されていました。

 

そこに立ちはだかったのが、大平正芳さんを支持する田中派です。

ロッキード事件裁判中にもかかわらず、闇将軍といわれた田中角栄さんが「角福戦争」への執念をみせます。

田中派は大掛かりな集票作戦を展開し、当初の下馬評は覆され、福田さんは大差で大平さんに敗北しました。

この結果福田さんは総理総裁を退きました

 

ちなみに昭和53年頃はディスコーが大ブームになっています。

ジョン・トラボルタ主演の映画「サタデー・ナイト・フィーバー」の日本公開大ヒットが引き金になりました。

 


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